多分私も自分を見失っていくんだと思う。

若いころ、ある人と手紙をやり取りしていた。
よくある、恋の終わりの相談というやつだ。
数百キロ離れた、海辺の町にせっせと手紙を書いた。





《違います。多分、こうだと思う。
あなたは彼の事を好きだった。
ちょっとややこしく言い換えると、
「彼を好きな自分」というロールプレイを、
完璧にこなしていた。
そのお芝居には、彼への嫉妬や憎悪という要素も含まれていた。
そして頭が良くて器用で、のめりこむタイプのあなたは、
そういう役柄に完全に適応した。
そして今、そのミッションから唐突に解放されたあなたは、
ちょっとバランスを崩している。
もう少し言い換えると、あなたの理性のスピードに、
あなたの感情が追いついていない、そういう事じゃないか。

「そうやって自分の中で、心の傷を記録にしてしまう」、
とあなたは書きましたね。
「してしまう」主体はあなたではありません。
少なくとも、あなただけではありません。
あいつもあいつもあいつも、そして誰より彼より、「時間」も関わっています。
あなたの「つらさ」は、良きにつけ悪しきにつけ、
自分をオートマティックに一番に考えてしまうところから由来するのじゃないかな。
そういうフレームワークからくる「つらさ」からは、卒業できます。したまえ。
あさみ様 **より》




彼の言葉は手元に残っているが私がそのとき、
どんなお返事をしたのかは、書き損じを見て想像するだけだ。
いつも私が言うことは適当だと思う。場当たり的に、何かを言うけれど、
本心はどこにあるのだろう、いつも思う。
自分が何を言ったか思い出せたことがあまりない。
何かを聞いて(読んで)ほしいのではなくて、
ただ、ひとりがおそろしいだけなのかもしれない。
だから、一生懸命何かを話しているふりをする。



《意味がせいかくに取れてるかわからないけれど、
多分そうやってわたしも、自分を見失っていくんだと思う。
このフレームワークは、多分「傷つく」ことを回避するための手法です。
「自分が、やった」「自分が、きめた」ことで傷つくのだから、
それは仕方がないではないか、という自分に対する言い訳と、
世間に対する(そして**さん・・・手紙をやり取りしている相手…に対する)、
見栄みたいなもんだと思う。

で、こういうフレームワークを取りなれていくと、狂う。
見失った自分は二度と見つけられない。
私はそういう人と何人か知ってます。

私もそういうことをやっていたというわけか。
卒業します。またやるだろうけどそのつど卒業したい。
**さま あさみ》




この書き損じは、きれいに清書され、彼の手元にとどいたようだ。






《要するに、「自分のせいにしておけばプライドが守られる」というわけだね。
僕にもそういう所はある。
だから良く分かるつもりだけど、こうして文字にしてみると、倒錯した論理ですな。
狂うかどうか知らんが、良くない。
自分を相対化するだけではなくて、
自分をチェックする自分というものも、相対化されて良い。
自己の同一化や絶対化ではなく、相対化をめぐる葛藤こそが淑女と紳士のたしなみだ。
そもそも誰か一人にしか責任のないことなんて、まずあり得ないです。
一方的な自分いじめは不合理だし、正当でもないよ。

「またやるだろうけどそのつど卒業したい。」

素晴らしい。そしてもっと良い女になりたまえ。
あさみ様 **より》





別につらい恋をしていたわけではない。
ごくごく当たり前に、誰でもやるようなテンションで好きになり
憎悪し、会わなくなった。

太陽が白い粉撒き散らして暮れる、それで夏も終わる。
ここにテキストデータにした手紙はもう捨てることができる。